折形の歴史について、私見をまとめました。
これは、去る2016年5月21〜22日、京都・法然院における展示会のパネル原稿に
手を加え、充実を図ったたものです。
(まことに恐縮ながら、当日のパネル文書に2箇所の誤りがございました。
一つは、『枕草子』からの引用部分。”色紙” の補足説明におきまして、
今日よく目にするところの厚手の紙ではないことをお伝えすべきところ、
無着色の薄様であるとの旨、記しておりました。
もう一つは、参考写真に付した書名。『当世仕様婚礼罌粟(けし)袋』で
ありますものを、『当世仕様婚礼芥子袋』と表記しておりました。
ご来訪いただきました皆様方にお詫びを申し上げますと共に、
上の通り訂正いたします。)
武家社会における折形のありようについては、お話しすべき事柄の分量がやや多く
なりましたので別稿を仕立てました(ファイル容量の都合で3つに分割いたして
おります)。
いづれも、当方手許の限られた資料に基づくものでありますゆえ、相応の(相当の?)
偏りを含むものでございますことをあらかじめお含み下さいますように。
この世の万象のことども、すべて見る角度を変えれば異なった風貌で立ち現れるもので
ありましょう。おそらく、折形をめぐる話も然り。
しかし当今、目に触れ、耳に届く言説は皆、似たり寄ったりの内容であるものと見受け
ました。一人くらいは、メガネを掛け換え眺める輩が居てもよさそうなもの。
そこで今般、別の物語を紡いでみた次第です。云わば、町衆の目に映った、<下から目線>の
概論。下から俯瞰しようというのですから、そもそも無理があるのかもしれません。
大方のご得心をいただける内容であるとは思っておりませんが、とりわけ、次のような
お方様にはお薦めいたしかねますことを前もってお断り申し上げておきます。
・何ごとであれ、通説、通念は時の洗礼を受けてきたもの。そこに誤謬などありはしない、
と信ずることのできる方。
又曰く、「床の間に飾ったーるもん、勝手に地べた下ろしたらバチ当たりまっせ」と、
ばーさんにおこらえながらおーきなってしもた(大人になってしまった)方。
・相矛盾する要素が共存する話には耐えられない、とおっしゃる方。
又曰く、クチの上手い露店のオッサンから、えらいねぇ(法外な値段)で
パチモンつかまされ、えらいめぇ(目)におーた(遭った)経験をお持ちの方。
・どこぞの誰かが傾ける薀蓄など、ほとんどすべては発話者の独善に過ぎず、
貴重な時間を費やすには価しないことをよくご存知でいらっしゃる方。
又曰く、 自分、下手(したで)に出といてからに、ホンマんとこ
えらい自信家みたいなジジイちゅーんは(というのは)、世ン中で
いっちゃん(一番)ヤなヤッちゃ(嫌な奴や)ねん、とご明察のアナタ。
等々
かくあらざる皆々様におかれましては、ご自身お手持ちの資料、知見と突き合せ、
諸賢のご所見構築に益するところがございますれば幸いです。
*歴史概説(PDF:A4、21ページ)
なお、2ページ目に「薄様=美しく染められた雁皮紙」と記述しておりましたが、
正しくは「雁皮紙などの薄手の和紙」でございます。
*武家に於ける折形について(PDF:A4、合計42ページ)
(3−1) (3−2) (3−3)
「何ごとも、めづらしきことをもとめ異説を好むは、
浅才の人の必ずあることなりとぞ。」(『徒然草』第116段)
***** 追記(2016年9月24日) *****
■<手綱>について
<手綱>と言えば、人が握るのにほどよい太さの紐(縄)状のものとばかり思っておりました
ので、上の駄文、武家編に掲げた積物図に描かれている布地、もしくは帯のように見える
<手綱>の図に「鉢巻き、ふんどしとも」などと記しましたが(さすがに後者はあるまいと
思いつつ)、横着せずに調べてみますれば、
「手綱は、普通長さ四尺二寸ずつのものを両方に付ける。広さは二尺四寸で、これを
折り畳んで用いた。・・・武家では、麻布一幅で、手ばかり七尺五寸を常法とし・・・」
(石村貞吉『有職故実(下)』、講談社学術文庫)との記述に出会いました。
また、『古今要覧集』(原書房、昭和56年の復刻版)には下図が掲載されて
おり、「武家所用手綱はすべて麻布一幅、長はたかばかりにて七尺五寸を常用とす。
たかばかりといふは人々の手にてさだむるものなれば曲尺にては計りがたし」
といった説明がなされています。
「一幅」がいかほどの長さであるのか、判然といたしませんが、『図解・単位の歴史辞典』
(柏書房)の<幅>の項、「大幅とは和服地では二幅(約二・三尺)のものをいい」との
記述を参考にすれば、おおよそ35〜36センチくらいとなりましょうか、いづれにせよ
少なからぬ幅を持った布地のようなものであったことは確かなようです。
■<斎宮>について
ついでのことに、「概観」21ページ:『小右記』988年9月20日条に記されている
「斎王、伊勢に向かふ日・・・天皇、櫛を以て斎王の額に刺す」についても調べてみました。
『故実拾要』の記述によると、斎王=斎宮(さいくう)とは
「イツキノ宮と訓す。伊勢太神宮の宮仕に備り玉ふ也。・・・天子即位の歳、先づ是を
卜定し玉ふ例也。・・・三年の間禊神事ありて、二年目の八月より翌年の八月まで野宮に
遷り在して伊勢の多気の宮へ参り玉ふ也。其の遷り玉ふ旅行の式を群行と云ふ。・・・」
とのこと。長きにわたる精進潔斎を経て伊勢神宮における神事に奉仕する身であった
ようです(天皇のために、なのか、天皇に代って、なのかまでは現時点で詳らかならず)。
潔斎を終え、いよいよ伊勢に向かう群行のとき、「天皇、小櫛を以て王の額に加ふ<・・・
櫛奉加の間、天皇京に向かはざる由を示す云々、・・・>」(『西宮記』:斎宮三度禊)
とあり、『小右記』の記述と併せみれば、天皇が斎宮の額に櫛を挿しながら「京都に
帰ってきたらあきまへん」と告げる儀式があったものと思われます。
988年の斎王は5歳の女児であったとのこと。であれば、占いにより斎王に
選ばれたときにはわずか2、3歳・・・。”あはれ”を覚えずにはおれません。
なお、これに関わって、『貞丈雑記・巻之一:櫛笄さす事』には「・・・髪にくしさす事は
いむ事なり<これ中古已来の事なり>。そのわけは、上古は天子の皇女を伊勢大神宮の斎宮に
たて給いし事有り<皇女とは天子の御娘なり。斎宮は今時御ものいみと云う類なり>。
かの斎宮伊勢の国へおもむき給う時、天子御手づから御櫛をとり給いて斎宮の御髪に
さし給いて「都の方へなかへり給ひそ」と仰せらる<みやこの方へかえりたまうな、という
事なり>。これを「わかれのくし」と云うなり。御わかれの時くしをさし給う故、常には
くしさす事をいむなり」と書かれております。
■ついでのついでに、もう少し<櫛>のこと
『源氏物語:夕顔』の章末あたりには「伊予の介、神無月のついたちごろに下る。
女房の下らむにとて、たむけ、心ことにせさせ給ふ。・・・こまやかにをかしきさまなる、
櫛、あふぎ、多くして・・・」と、夫・伊予の介と四国に赴く際の餞別として源氏が空蝉に
櫛や扇を贈った場面が描かれています。
一方、『岩波・古語辞典』:<櫛>の項には「櫛は占有のしるしなので、櫛を女の髪にさす
ことはその女を妻とすること、櫛を投げ棄てることは離縁を意味した」との記述があります。
象徴は両義性を帯び得る、ということなのでしょうか。ご参考まで。
貞丈先生にも迷い(?)があったのか、引用項の頭書に
「追考 上古には櫛をさしたりとみえたり。『万葉集』などの歌に「さしぐしの
あかつきがた」などとよめり。その後くしささぬ事になりしなるべし」と
書かれているそうです。
「別れても〜、好きな人〜」なんてのもありましたねぇ・・・。